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命を救い、心を震わせ、夢を支える。現役看護師歌手・野村真希が描く、希望を届けるエンターテインメント

関西発のエンターテインメントを、30年以上にわたり大切に育んできた株式会社ウイングス・エンタテインメント。その歴史あるステージで、今、ひときわ強い輝きを放っているのが、現役の看護師として活動を続ける歌手・野村真希だ。

命の最前線に立ち続ける看護師としての慈愛、自ら組織を率いてきた経営者としての強靭な精神、そして誰かの心を震わせる歌手としての才能。異なる三つの道が一本の線で繋がったとき、そこにはエンターテインメントの枠を超えた「生きる希望」を届けるアーティストの姿があった。

奈良県桜井市で活発に育った少女時代、そして20代で直面した二度の命の危機。絶望の淵から奇跡的な生還を遂げた経験。

前編では、アグレッシブに自らの人生を切り拓いてきた野村真希の原点を紐解く。

アイドル歌手に憧れた幼少期

野村 真希

奈良県桜井市で、3人兄弟の末っ子として生まれました。お人形さんを抱いて遊んだような記憶はなく、年の離れた二人の兄にくっついて、毎日外で遊んでいたような子どもでしたね。
両親が言うには、幼稚園や小学校に入ったばかりの子が話すようなことを3歳くらいからハキハキと喋っていたそうです。幼稚園に通う年頃になると、テレビに出ている男の人を見て『この人、ハンサム!』なんて言っていたとか。

「活発でおてんば、少しオマセな女の子だった」と自らの幼少期を振り返る野村。『スター誕生』のようなオーディション番組が流行し、人気歌手が連日テレビ番組を賑わせたことで、「あぁ、やっぱり私もこんなふうに歌を歌う人になりたい」と強く思うようになったという。

そんな幼少期の野村は、スポーツも万能。小学生の頃、高学年だけが参加するソフトボールクラブに4年生ながらもメンバーとして選ばれ、中学・高校はソフトボール部に所属。学生時代の多くをスポーツに打ち込んで過ごしたが、高校入学後、コーラス部の先生に誘われてコーラス部にも所属することになったという。

野村 真希

先生から、『あんた、歌上手いからコーラス部に入り!』と言われて。今思うと、先生はただ煽ててくださったのかもしれないですが、その時に先生に言われたのが、『歌謡曲を歌うような発声方法が自然に身についている』という言葉でしたね。

仲間と共に『NHK全国学校音楽コンクール』にも出場するなど、精力的に活動。そんな日々を過ごすなかで”歌手になりたい“という思いはますます強くなったといい、「今思っても、この時の気持ちは子どもながらにかなり強く明確な気持ちだったと思う」と野村は振り返る。

進路を考える時期になり、両親に「歌手になりたい」と相談するが、両親は猛反対した。元来、真面目で優等生な性分の野村には、当時両親の反対を押し切ってまで歌手を目指すほどの勇気はなかったといい、教育関係だった両親の勧めもあって大学では教育を学び、幼稚園教諭の道へ進んだ。

生死の狭間で見た景色。奇跡の連続が導いた、恩返しの心

幼稚園教諭となって半年ほどした夏の盛り、野村は原因不明の高熱に見舞われる。何度も病院に行くも原因はわからず、解熱剤を飲みながら体調を整えて出勤する日々が続いたという。

野村 真希

子どもたちにうつるような病気なら欠席をするつもりでしたが、風邪でもなく、その頃園で流行していたウィルス性の病気でもありませんでした。何度検査をしてもお医者さんは原因不明だとおっしゃるので休む理由がなく、熱が上がったら解熱剤を飲んで仕事に行っていましたね。熱は高いけど自分では辛いと感じていなかったし、それに仕事を休むと『欠勤』になってしまうでしょう?

看護師であり歌手としてパワフルに日々を駆け抜けている野村だが、それまでも学校も仕事も休んだことがなかったという彼女の辞書には、『皆勤賞』という文字以外はなかった。しかし、体調は一向に回復しないまま、気付けば季節は冬に。改めて大きな病院を訪れると、はしかと重篤な肺炎にかかっていることが判明した。

病院でレントゲンを撮ると、両肺は真っ白。身体中の酸素が足りておらず、酸素吸入も一番強い状態にしないといけない状態で、即入院。医師からは『今晩が山かもしれない』とまで言われたという。

そのまま昏睡状態に陥り、数日間生死の境を彷徨った野村。そのとき、到底現実では起こり得ないような不思議な体験をしたという。

野村 真希

自分の体から魂が抜けるような、いわゆる“幽体離脱“を経験しました。天井付近から、ベッドで寝ている自分と、その周りを家族が囲んでいる様子が見えたんです。自分を俯瞰して見ているだけでなく、家族が何を思っているのかという心の中まで伝わってきました。
やがて私の体は三途の川に行き、その付近には白い着物をまとった人たちがいて、そのなかに亡くなった祖父母の顔もありました。私が祖父母を追って川の方へ行きそうになったとき、『真希、戻ってこい!』と私の名前を何度も呼ぶ家族の声が聞こえたんです。

家族の声で現実世界に引き戻され、死の淵から奇跡的に回復。二ヶ月の入院を経て無事退院するまでに至った。

自宅で数ヶ月療養したのち、ようやく仕事復帰への足がかりを掴もうとしていた頃、追い打ちをかけるように脳腫瘍が見つかった。1度目と同じ病院に再入院し、検査を受けて下された診断は、『クッシング症候群(※)』だった。

医師からは『手術をしても助かる可能性があるかわからない』とまで言われたが、2週間ほど入院生活を送った頃、野村の身体に再び不思議なことが起こる。病気が跡形もなく消え、すべて正常値に戻っていたのだ。

野村 真希

お医者さんも、理由がわからない、と本当に不思議がっていました。でも、2度も命を救っていただいた病院の先生や看護師さんたちには本当に恩を感じましたね。
退院後は幼稚園に復帰するつもりでしたが、『私を助けてくれた病院のお役に立ちたい』『先生や看護師さんたちに恩を返したい』という思いが強くなって、幼稚園には戻らずに医療スタッフとして転職することを決めました。いずれ私は看護師という道に進むのですが、この時はただ『この病院に恩返しがしたい』と思っただけのことだったんです。

※副腎皮質ホルモン(コルチゾール)が過剰分泌されて起こる病気。手術による腫瘍切除が必要で、放置すると重篤な合併症で死亡率が高まる。

経営者として手腕を発揮。人生の舵を大きく切った、両親との別れと再出発

お世話になった奈良県中部の中核病院に就職し、最初に配属されたのは、病院併設の看護学校だった。

実は野村、幼稚園教諭の資格以外に、医療事務、歯科助手、病児保育の資格などを大学在学時に取得。現在のように誰もが欲しい情報を簡単に手に入れられる時代ではないなか、誰に教わるでもなく、効率的な学びと多角的な活動を野村は身をもって体現していた。複数の医療資格を持っていたことや現場での仕事ぶりが評価され、看護学校の事務スタッフとして働くだけでなく、病院でのさまざまな仕事も任されることに。

命の尊厳に触れる濃密な日々を過ごすなかで、徐々に「実務を経験した今だからこそ、医療事務や運営について体系的に学び直したい」という意欲が芽生えた野村は、再び専門学校に通う決意をする。すでに医療事務の資格を取得しているにもかかわらず、学校や講師による教え方の違いや最新の知識に触れたいという純粋な好奇心からだったが、この決断が野村の新たな可能性を広げることになった。

専門学校から「うちの講師になってくれないか」と声がかかったのだ。

野村 真希

講師の仕事を始めてみるとすごく面白くて。以前の学校で学んだことや病院での実践経験、そこに今の学校で教えているメソッドを組み合わせて自分なりのやり方を生徒に伝えていたことが良かったようで、講義の内容の充実さが評価されて口コミで広がっていきました。
生徒がそれほど多くない学校でしたが、私が講師として入ってから生徒が増え、新しい講師の先生にも恵まれて、会社は右肩上がりに利益を伸ばしていきました。

順風満帆な日々に、再び試練が。

講師として3年ほど勤務した頃、オーナーの放漫経営が原因で、専門学校が突然の閉校に追い込まれた。共に働いてきた講師仲間たちも野村自身も、明日からの仕事も行き場も失ってしまったのだ。

行き場を失った野村は、自らが社長となり、同じく行き場を失った講師たちと共に医療事務の専門学校を立ち上げる決意をする。まだ20代、経営の経験はゼロ、あまりにも大きな賭けだったが、このとき野村を動かしたのは「共に歩んできた仲間を放っておけない」という強い責任感であり、この大きな挫折こそが、彼女を「看護」と「歌」の道へと導く、運命の分岐点になったという。

野村 真希

専門学校は順調に売り上げを伸ばしましたが、インターネットやコンピュータの導入が急激に進み、医療の現場では電子カルテが主流に。会社として蓄えはしっかりとありましたが、実習用にいくつもの機材を新しく揃えるにはやはり莫大な投資が必要で、急激なIT化の波を前に『ここが経営者としての引き際かもしれない』と考えていたんです。
そんな矢先、阪神大震災が起こりました。私の学校でもパソコンなどの機材が全部落っこちて設備がぐちゃぐちゃに。『これも何かのサインかな』と感じて、その年に学校を閉めることにしました。

経営者という立場に一区切りをつけた野村は、講師経験を活かし、全国50拠点を有する医療事務の専門学校で、講師の育成という専門性の高い領域へと進む。

野村 真希

学校といってもビジネスなので、生徒を集めないと経営が成り立ちません。講師に指導をする以外に、過去の経験や知識を活かして経営にも参加するようになりました。
私が入るようになって、所属していた奈良支社は生徒数が300%増になり、全国で表彰していただいたり、北海道から九州までの教育担当者を集めたセミナーを行ったりと、とてもいい経験をさせていただいたと思っています。

持ち前の推進力に、自ら学校を運営してきた経験をミックスさせるという、野村にしか成し得ないアプローチは、瞬く間に組織を活性化させ、欠かせない存在として評価を確立していった。

指導者として確固たる地位を築きながらも、あえてその成功を手放し、命を救う『看護』と、心を癒す『歌』という、新たな使命へと身を投じることになる。

【後編】楽しみながら、誰かの人生を明るく照らす。歌と看護の力で未来をつなぐ、現役看護師歌手・野村真希の挑戦【野村真希ヒストリー】へ続く

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